<慈悲>という言葉は、僕の大好きな言葉です。
<慈>というのは古代のインドの言葉で<マイトリー>、または<メッター>というと教わりました。おおまかに英語に訳すればフレンドシッブという意味であるらしい。
そして、もう一方<悲>というのは<カルなー>というそうです。
それは、こころやからだの中にあまりにも多くのしかかってくる深い苦悩のため、思わず洩らす、ため息のような感情であると言われます。
<慈>は同朋に向けて発する励ましの眼差しですが、<悲>のほうはただ黙ってそばに座り、苦しんでいる人の手に手を重ねて、ともに涙を流しているような、そんな姿勢ではないかと思います。
ひと苦痛をおのれの苦痛のように感じ、ひとの悲しみを自分の悲しみのように悲しむ。
何を言われなくても、ひとりの悲しみをふたりが背負えば、そのぶんだけ誰でもらくになるはずです。 自分も共に涙を流すことでひとりの悲しみの涙を半分にしようという、ごく控えめな姿勢が<悲>という働きの中にあるように思われるのですが、どうでしょうか。
僕は励ますということが、あまり好きではありません。「がんばれ! がんばりなさい!」と、励ます善意は十分にわかっても、もう一つピンとこないところがあるのです。
誰だって、頑張ろう、勇気をもって立ちあがろう、と心に思はない人間はいないでしょうよう。 しかし、人間の世界には、どうしょうもないことがあるのも事実です。弱くあれ、負けてもいい、と言うのではありません。 そうではなくて、本当に悲しみ苦しんでいる人の重荷は、それを相手に戦うだけでは乗り越えることはできないと感じることがあるのです。
死と戦う、というのも見事なことです。しかし、人が永久に生き続けることはできないことも事実です。老いる、ということもそうです。戦って、相手をやっつけて、打ち勝つことができるだろうか。人間もモノも、すべてひとつのリズムをもって変化してゆくのが自然というものではないでしょうか。
痛みに泣いている人に、戦え、と励ますのは人間的ではない、と僕は思えてならないのです。我慢しなさい、耐えて頑張りなさい、というのもそうです。
そういうときは、もう、相手の手に自分の手を重ねて、黙ってじっと寄りそっているしかない。できることは、心をこめて、その人の痛む体をさすってあげることぐらいではないでしょうか。手脚が痛む場合は、それもできます。しかし、心が痛みに悲鳴をあげている人には、それすらできません。
ただ、こちらもおろおろしながら、横で涙を流して黙っているしかないのです。
<慈悲>の<悲>という字には、そんな(同化)することへの暗示がこめられているように思われます。
五木寛之の<生きるヒント>の中から
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